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2011年2月10日 (木)

おきなのひとりごと(別れ)

おきなの野菜畑のある集落の老婦が極楽浄土に旅立たれた。90歳を目の前にして誰に見取られる事も無くの旅立ちで有ったと言う。

何時も一緒に野菜つくりをしておられた老婦が電話かけても応答が無いで、異変では?と判断され、その情報から発見され時すでに遅く手遅れだった様だ。

ほど近くには息子夫婦は住まいされて居ると聞くが、最後の死に同席出来ず残念無念であろう。

今夜が通夜との事である。通夜の夜の最後はお坊さんに蓮如上人の『御文章』の中の『白骨の章』拝読してもらい夜とぎをされるでろう。その一説は

『夫(それ)。人間の浮生なる相を、つらつら観ずるに、およそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ萬歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形たいをたもつべきや、我やさき、人やさき、けふともしれずあすともしらず。おくれさきだつ人は、もとのしずくすゑの露よりもしげしといへり。されば。朝(あした)には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたへぬれば。紅顔むなしく変じて、桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親巻属あつまりて、なげきかなしめども、更にさの甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり、あはれていふも中々をろかなり。されば人間のはかなき事は、老少不定゜のさかひなれば。たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて。阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて。念仏まうすぺきものなり、あなかしこあなかしこ。』

と後世に伝えられている。無縁社会現象の中でこのご文章はどう受け継がれるのだろうか?思った。

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コメント

孤立化している老人のニュースをよく見ます。
私の住んでいる町内でも、周りは皆老人世帯。
まだご夫婦のかたが多いのですが、
お付き合いは全くなく、会えばご挨拶程度です。
わがやのお隣には、まだ若いですが、
といっても50台の男性一人暮らしのようです。
隣は何をする人ぞで、
いるのかいないのかさえもわかりません。
本当に亡くなっていてもわかりませんね。
近い将来わが身にも降りかかるかも知れないことですよね。

何処も同じだね、子供見るのが珍しくなって来たね。我々の世代の住む街は。生死の間に病と老いの闘いが有る。元気な世界から考えてもその時代に成ったら若い時にもう少し考えていればと思うだろうね。

雨が降って早々に帰宅しました。
前日は久しぶりに湯治村で長湯をしました。

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